2014-11-27
高知・牧野植物園へ
10月に友人を訪ねて高知県に行ってきました。
高知訪問は10年ぶりくらいかな、とっても久しぶり。路面電車が走るまちに、陽気な人々、おいしいご飯、大満足の旅でした。
今回は、高知県立牧野植物園について。
日本の植物分類学の父・牧野富太郎博士は土佐生まれ。
彼の研究と情熱が受け継がれた植物園に、念願叶って行ってきたんですー!!
なんて言っていいのか、その場にいるだけで、泣きそうなほどに心身が満たされる植物園は初めてでした。
さまざまな「環境」が植物園の建築の内外に用意されていて、それぞれの植物が適した場所で伸びやかに生きている。
その植生が絶妙。この土佐の風土に合っているとも言えるし、合っているだけでなく変化(進化?)しているんじゃないか、とも思えてくる。いずれにせよ、ここの自然のありようが本当に無理がなくて、大事に想われているんだ、ということは理屈抜きにわかるし、それが、植物にとってだけでなく、ひとにとっても心地よいのだから、たまらない。
この植物園を創り上げた人々、そして、今まで守り育み続けてきた人々は、
牧野博士の思いを理解し、それをまっすぐなまでに受け継いで、それぞれの知恵や力を編んできたのだろう。たしかにそう感じられる。
・・・ここの近くに住んでいたら絶対に通いまくるなと確信するほど魅せられました。
年間パスポート、お得だったなぁ、いいなぁ近くのひと・・・。
年間パスポート、お得だったなぁ、いいなぁ近くのひと・・・。
インタープリターとしても刺激をいただける空間でした。
フィールドワーカーとしてのありようも、展示の仕方とか、印刷物とか、イベントとか、わかりやすいアウトプットの形からも学ぶところ多かったのですが、
個人的に気になって、腑に落ちたのが「樹名板」の役割。(樹名板=樹木の名前や解説が記載されている名札のこと)
私は、公園の樹木に名札を安易に設置するのには否定的で、それは、名札で樹名を知ってしまうと、それ以上の観察や探求が阻害される恐れがある、と思っているから。
でも、この植物園には、一つひとつの植物を愛し続けて見続けた牧野博士の思いが息づいていて、ここでは樹名板ですら、他の場所とは違うように感じられました。
植物分類学を専門とした牧野博士は、一つひとつの植物を友とし、観察し、スケッチし、他と比べて…そうやって知り尽くしたうえでそれぞれに「名前」を付けた。
そうだ、そうなんだ。名前を知って、知った気になるなんて、本末転倒。「名前」はそれぞれが異なる個であることを私たちに教えてくれるヒントになって、探求を始める手がかりをくれるだけ。名前をつけるまでのプロセスこそ追体験するべきなんだな、牧野博士のように。名前や樹名板が悪いわけじゃない、そんな当たり前に改めて気づかされたのでした。
(いろいろな環境。順路があるわけでもなく散策路も気分で選べる。)
ことばにしているわけではないのに、伝わってくるものがある。
それはどこから来ているのだろう、と、終わりのない問いを思い浮かべる。
牧野博士や、関わる人々の想い、だと思う。
それぞれの情熱や知恵、経験などをひっくるめた存在の厚みだと思う。
ことばにすると陳腐だし、言うは易しで、想いがあってもそれがここまで形づくられることは並大抵のことではないだろうな。
インタープリテーションでは、伝えること、いわゆる「ねらい」とメッセージを磨き上げることが第一になってくるのだけれど、伝える、という行為と、相手に届く(伝わる)、という結果の間には隔たりがあります。
「自分が言ったからといって、必ずしも相手に伝わっているわけではない」ということ。
さらに、「言わないけれど、しゃべらないけれど、伝わることもある」。よくもわるくも。
うーん…いろいろ思いついて書きたくなってきたけど、まとまらなくなってきたのでこの辺にしておこう。
純粋に、居心地よくって楽しい場所です、牧野植物園は。帰りたくなる空間ですよー。
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